言葉なんかおぼえるんじゃなかった(ことばの発生と崩壊の詩学)
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
——田村隆一「帰途」1962年より
〔1〕
ことばの奥底に悪しき滑稽さが透けて見えるとき、また、自分自身のことばにもそのようなものが感じられるとき、この詩人とともに、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と叫びたくなる。
昨今の閣僚の失言、「有」を「ゆう」としか発音できずに堂々と「問題の有無」(「うむ」という正しい発音でなく「ゆうむ」)と語る副総理、「広く募っているが募集していない」と迷答弁をする総理。——こうした数々の権力者のことばに、職務上、「つじつま」を合わせるべく、「◯◯という言葉の定義は明らかではない」と国会で答える賢い官僚もまた、「言葉のない世界」に行きたい、とため息をついているであろう。
だが、このような愚痴を、詩人はこぼそうというのではない。他の作品で「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」(「言葉のない世界」1962年)と謳うこの人は、ことばというものを遥かに深く見ている。
〔2〕
その暗示は、「帰途」というタイトルのなかにあるだろう。「帰り道」というわけだが、何処へ帰るというのか? 詩人自身のことばを用いれば「言葉のない世界」「意味が意味にならない世界」が帰る先であろう。
ここでヘーゲルの知恵を借りれば、「感覚的確信」から「知覚」への発達における言葉の役割をどう見るかが重要であろう。「いま、ここ」のみを知る「感覚」が「知覚」へと進化をとげ、より広い世界を認識するようになるには、語の一般化機能が不可欠である。「いま、ここ」にある時計であった「時計」の語は、一般化の機能のゆえに、「あらゆる時計」を指すようになった。これが「感覚」が「知覚」に転化する秘密である。【この知覚の上に悟性、自己意識、概念(、さらに精神)が発達を遂げていくのが、ヘーゲル『精神現象学』のテーマである。】この「感覚的確信」から発生した「知覚」は、ヘーゲルに言わせれば、豊かでもあれば貧しくもある。「豊か」であるというのは、将来の真理の認識への一里塚であるからであり、「貧しい」というのは、感覚が持っていた世界との直接的で生きいきとした結びつきを、抽象の故に、喪失したからである。この観点からすれば、詩人の帰る先は、「いま、ここ」という生きいきとした世界なのだ。これは「言葉のない世界」の本質である。
〔3〕
さらにヴィゴツキーの知恵を借りるとすれば、ことばとその心理諸機能との発達の道は、同時に、それらの退行、崩壊の道でもある。健常な発達の道は、統合失調症や失語症を理解する鍵であり、それとともに、病理学的な退行・崩壊の道は、健常な発達を理解する鍵でもある。
詩人は、このような意味で、健常な発達の人と、病理学的変調のある人とを、自分のなかに内包している。つまり彼は、自己のことばを意識的に崩壊させ、考察し表現すべき世界をいままでの言葉から解放する。それは、統合失調症患者が概念を失い、失語症患者がことばとその意味を失うことに似た詩人の作業である。こうして、ありのままの「いま、ここ」の世界、ありきたりの常識的な言葉に「汚染」されていない世界を感じ取ることができる。そして、他方では、幼児の初語、その意味の般化と分化に類似したような自己の言葉の再創造が必要となる。同じ道を上から下へと歩むと同時に下から上へと歩む。それは崩壊と発達という対立的な歩みであるが、逆方向であるとはいえ、歩んでいるのは同じ道なのである。
したがって「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」は、直接的な反語ではなく、ことばを意識的に崩壊させる企図である。詩人はことばの破壊と同時に創造を行う。そこにあるものは、詩人の産みのもがき、創造の苦しみであろう。
なお、ヴィゴツキーの知恵は、この詩人の作品に関連して捉えれば、言葉以前に発生する心的体験論が「感覚的確信」の了解する世界を照明することや、記述と因果的説明との統一(言いかえれば物語と概念との統一)があってこそ問題を十全に掌握できること、につながってくるが、これらについては別の機会に述べることにしよう。 〔神谷栄司〕

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