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Поэтика становления и распада речи

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Я не мог бы овладеть речью. Мир без слов... Если я мог бы жить в мире, не дающем смысл значению, Я был бы более счастлив. ----Рюйти Тамура, На обратном пути, 1962 г. 〔 1 〕  Когда злой комизм виден в речи собеседника, или, когда похожее состояние появится во мне, то мы вместе с поэтом хотим громко крикнуть «я не мог бы овладеть речью».  Сегодняшние обмолвки у министров, неточные выговоры иероглифов у заместителя генерального министра, и неясные смыслы слов у генерального министра…. Когда умной бюрократ говорит «нет ясного определения у этом слова», чтобы по профессии прикрыть противоречие слов у министров, то этот бюрократ также со вздохом скажет, что я мог бы поездить в «мире без слов». Но поэт никогда не приносит жалобы на такую ситуацию. Когда в другом произведении он пишет стихи: «Пользуясь речью, мы стремимся найти мир без слов», то он гораздо глубже видит речь. 〔 2 〕  Намёк этого поэта заключается в названии стих: «На обр...

言葉なんかおぼえるんじゃなかった(ことばの発生と崩壊の詩学)

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  言葉なんかおぼえるんじゃなかった  言葉のない世界  意味が意味にならない世界に生きてたら  どんなによかったか   ——田村隆一「帰途」 1962 年より 〔 1 〕  ことばの奥底に悪しき滑稽さが透けて見えるとき、また、自分自身のことばにもそのようなものが感じられるとき、この詩人とともに、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と叫びたくなる。  昨今の閣僚の失言、「有」を「ゆう」としか発音できずに堂々と「問題の有無」(「うむ」という正しい発音でなく「ゆうむ」)と語る副総理、「広く募っているが募集していない」と迷答弁をする総理。——こうした数々の権力者のことばに、職務上、「つじつま」を合わせるべく、「◯◯という言葉の定義は明らかではない」と国会で答える賢い官僚もまた、「言葉のない世界」に行きたい、とため息をついているであろう。  だが、このような愚痴を、詩人はこぼそうというのではない。他の作品で「 言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」(「言葉のない世界」 1962 年)と謳うこの人は、ことばというものを遥かに深く見ている。 〔 2 〕  その暗示は、「帰途」というタイトルのなかにあるだろう。「帰り道」というわけだが、何処へ帰るというのか? 詩人自身のことばを用いれば「言葉のない世界」「意味が意味にならない世界」が帰る先であろう。  ここでヘーゲルの知恵を借りれば、「感覚的確信」から「知覚」への発達における言葉の役割をどう見るかが重要であろう。「いま、ここ」のみを知る「感覚」が「知覚」へと進化をとげ、より広い世界を認識するようになるには、語の一般化機能が不可欠である。「いま、ここ」にある時計であった「時計」の語は、一般化の機能のゆえに、「あらゆる時計」を指すようになった。これが「感覚」が「知覚」に転化する秘密である。【この知覚の上に悟性、自己意識、概念(、さらに精神)が発達を遂げていくのが、ヘーゲル『精神現象学』のテーマである。】この「感覚的確信」から発生した「知覚」は、ヘーゲルに言わせれば、豊かでもあれば貧しくもある。「豊か」であるというのは、将来の真理の認識への一里塚であるからであり、「貧しい」というのは、感覚が持っていた世...

生きているスタニスラフスキー

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朝ドラ(連続テレビ小説)「なつぞら」が幕を閉じました( 2019 年 4 月〜 9 月)。「あさが来た」( 2015 年度下半期)あたりから朝ドラを欠かさず見ていますが、私にとって、今回の「なつぞら」ほど、登場人物がくっきりとして記憶に残るものはありません。きっと、スタッフ、俳優陣の熱気、脚本の素晴らしさによるものでしょう。セリフには一度も、 20 世紀最大の演劇人であったスタニスラフスキーの名前はでてきませんでしたが、彼の名著『俳優修行』の表紙が映し出されていました。彼の思想の端々がセリフに現れていました。「役を生きよ」というこの演劇人の呼びかけがスタッフ、俳優陣を鼓舞していたのではないでしょうか。だからこそ、 1 人ひとりの役柄がくっきりした。その意味では、この演劇人こそ影の主役であったかもしれません。 どの役柄、どの俳優も心に残っているので、とても書ききれません。敢えてお一人だけあげるとすれば、主人公なつの妹役、千遥を演じた清原果耶さんが気に入りました。まだ 17 歳、それでいて中学生から 30 代半ばのお母さん(兼、女将さん)、そしてシングルマザーを演じてしまう。数えるほどの回数しか出演していないのに、ずっしりとした存在感があります。私が彼女の力量のただならぬものを感じたのは、セリフもなくただ彼女の相貌をカメラがいつまでも写していることから。演出家とカメラマンはきっといつまでも撮っていたかったに違いない。それは、なつとやっとのことで再会を果たしたシーン。たんに嬉しいわけではない、会いたくとも会ってはいけないと思った極めて複雑な心境を見事に表現していました。繰り返しますが、一言のことばもなく。 〔神谷栄司〕